特集

永田町で半世紀、髪を切り続けた宮宗住江さん
~大物議員との知られざる交流~

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■小泉先生から怒鳴られ、悔しくて辞めようと思いました

――理容師になられたきっかけは?
父は私が10歳の頃に亡くなり、母からは「手に職をつけなさい」と言われていました。兄弟6人で理容師をしているのは私だけです。通信で学び、免許を取得しました。最初の店はとても厳しく、何度店を飛び出したことか……。辞めたいと兄に嘆いたこともありましたが、結局は4年間勤めました。でも、その時の経験があるからこそ「宮宗理髪室」を続けてこられたのだと思います。



――半世紀にわたり先生方の髪を切り続け、苦労も多かったと思います。
昔の先生方は厳しかったですからね。私自身が若かったこともありますが、怒鳴られることもしょっちゅうでした。今の先生方とは全然違いますよ。風格があって威厳がありました。小泉純也先生(小泉純一郎元首相の父)の髪を洗った際にはとても褒められましたが、髪をセットした際には「なんだこれは」とひどく怒鳴られました。もう悔しくて……。
辞めようと思っていた時、佐藤孝行先生が最初のお客さんになってくれたことで救われました。今でもお付き合いさせてもらっています。ここまで続けてこられたのは先生のおかげですね。

■小渕先生は、本当に優しい方。「ありがとう」が言える人

――特に印象に残った「先生」はいらっしゃいますか?
やはり小渕恵三先生ですね。昭和38年の初当選以来、37年間ずっと担当させていただきました。当時、店のスタッフは7~8人いたので、普通シャンプーなんかは新人の子が担当しますよね。でも小渕先生だけは、頭を洗って、カット、ブローするまで全て私でなくてはダメでした。あの方が素晴らしいのは、総理になってからも「何日の何時にお伺いしたいのですが、ご都合いかがですか」とご丁寧に予約を取られる。思いやりがあり本当に優しく、いつでも「ありがとう」という言葉をかけてくださるような方でした。



―― 小渕先生は店でのこだわりがあったとお聞きしています。
赤い椅子がお気に入りでした。黒い新しい椅子であれば自動で足が上がり快適にもかかわらず「僕は赤い椅子が好きなんだ」とそれにしか座らなかったですね。小渕先生が亡くなられるまで、先生のために古くても赤い椅子を残しておきました。今は、群馬県中之条町にある小渕先生の記念館に納めてあります。



――小渕先生が首相になった際は、99年の日米首脳会談にも同行されました。
外務大臣の時に「いつでもこんな綺麗に髪をセットしてもらえたらな。外国に行った時は大変だからな」なんてことをつぶやいていました。私も「海外に行く際には連れて行って下さい」とお話していたんです。そして、総理になられた際に連れて行ってもらいました。感動しましたね。



―― 海外での経験はいかがでしたか?
髪をセットする場所も時間も特には用意されていませんでした。私も「総理大臣夫人秘書」という肩書で行かせて頂きましたから。そこで、どこでセットしたかというと洗面所だったんですね。小渕先生はお風呂上がりにステテコ姿で「これが総理の姿なんて誰も知らないね」なんて話をしていましたよ。

■「宮宗」に先生方は「癒し」を求めに来ていた

――半世紀やってきた店をたたんだ心境は?
 寂しいですね、やっぱり。でも、これで良かったと思います。ひっそりと終わるのではなく、このように皆さんが取材に来て取り上げてくれることで、踏ん切りがついた部分もありますね。今になって先生方は「これから髪はどうすればいいんだ」と仰って下さる人もいるんですけど。政権もバタバタしていますので、私はここでキッパリ引退しようと思います。



――ここまで続けてこられた原動力はどこにあったのでしょう。
好きだったんでしょうね。この職場が好き。床屋が好き。私は決して上手くはないけれど、ハートだけは持っていたいなと。できることは一生懸命、ていねいにやろうと見習い時代に学びました。だからこそ「細かいとこまで気を遣ってくれてありがとう」と言ってもらえる。みなさん、やはり過程を見てくれているんですね。地元の美容室に行けば1票になるけれど、ここへ来ても1票にもならない。それでも「宮宗」という場所に「癒し」を求めにきてくれたわけです。時間がある方にはマニキュアやエステをやったりもしていましたよ。永田町の議員の方々が、唯一心休まる場所であれたのかなと思います。






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