特集

米菓専門店「赤坂柿山」が50周年!
2代目川合寛妥さん「人と人とのつながりが街をつくる」

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赤坂で誕生した米菓専門店「赤坂柿山」。今年2月9日に創業50周年を迎えた同店は、これまでのどのような道を歩んできたのでしょうか。また、赤坂の街とどのようなつながりを育んできたのでしょうか。現・社長(2代目)の川合寛妥さんにお話を伺いました!

「花街」風情のあった赤坂

―――50周年おめでとうございます。最初に、川合さんと「赤坂柿山」の関わりから教えていただけますか?
川合さん(以下、敬称略):父の寛二が柿山を創業したのが1971年、赤坂に本店を開いたのが1973年でした。私自身は「人」に興味があり大学は心理学科へ。その後は「モノづくり」と「街」に関わる仕事がしたくて3年間建設会社で働き、25歳の時に柿山に入社しました。入社時から「過去を振り返らず自分流でやればいい」「俺は数年で引退する、後は任せる」という父の言葉に抗うこともなく、30歳で社長になりました。

―――住んでいた場所も赤坂だったのでしょうか。
川合さん:生まれた時は西荻窪に住んでいましたが、幼稚園児だった1973年に父が赤坂の先輩方から「本気で赤坂で商売をするなら赤坂に住みなさい」と言われ、家族で赤坂に引っ越してきました。その後小学校入学前に赤坂を離れた後、実は25歳の入社まで、赤坂は「何年かに一度父に美味しいものを食べに連れて行ってもらう街」でした(笑)。


創業当時のパンフレット

―――幼少時代の頃の赤坂の思い出は何かありますか。
川合:幼稚園の時に遠足で高橋是清翁記念公園へ行った思い出があります。一ツ木通りに牛乳屋さん(?)があって、そのお店の女の子のことが好きでドキドキしながら一緒にお弁当を食べていたようです。甘酸っぱい思い出です。

―――とっても素敵な思い出です! 当時の街の風景についてもお聞かせください。
川合:赤坂は当時からオフィスビルが多く建つ街ですが、それ以上に料亭や高級料理屋などが並ぶいわゆる「花街」でした。幼心にも街のネオンや看板の灯りと共に、近寄りがたい黒塀の街並みや、街中で人力車や芸者さんを見かけたことを覚えています。

 
1970年代の赤坂について話す川合さん


「人は平等」であること

―――川合さんが社長に就任したのはいつ頃でしょうか。また、初代社長から影響を受けたことはありますか。
川合:30歳のときに社長に就任しましたが、そのとき父からは「過去を振り返らない」ことと「人は平等」であるということを強く言われました。たった2つかもしれませんが、とても意味のある大きな2つの教えでした。

―――なるほど、「過去を振り返らない」ことですか。
川合:過去を振り返らず時代に合わせた経営戦略をとれという意味が込められていたわけですね。50年前のおかきは、質素なデザインのパッケージで売られているのが一般的でした。それに対して父は「FRESH&FASHION」というポリシーを掲げてパッケージにこだわり、見ても美しいおかきを販売し、他と差別化を図ろうと考えました。これにより、贈答の機会にご利用いただくブランドとしてお客さまからの支持を広げていきました。


創業当時の商品パッケージ

―――前例に囚われず時代に合わせた経営判断をしていく、ということですね。
川合:そうですね。今は新型コロナウイルスの影響もあり、多くの人たちにとって「おうち時間」が増えました。ギフトイメージの強い柿山でも、ご自宅用を想定した商品販売をするなど時代に合わせた経営戦略をとっていきたいと考えています。しかし、ここ最近は時代の変化が著しいため、一口に時代に合わせるといってもなかなか難しいと感じています。

―――2つ目の「人は平等」についても教えてください。
川合:従業員一人一人を尊重するということが大切ですよね。創業当時から父は従業員全員に対して「さん」付けで呼んでいました。よく父から「役職によって責任の重さは変わるが、役職が高いからといって決して偉いわけではない」と言われていました。そうした教えを
受けて、私自身も代表取締役という立場とは関係なく、従業員のみなさんとは対等に接するように努めていきたいと思っています。

―――社内の風通しが良くなりそうですね。
川合:私には父のようなカリスマ性やセンスはありません。社長だからといって一人で考えていても限りがあるし、それならば“みんなで”考えていきたい。ですから、日頃から従業員から意見を聞くようにしています。先日、コロナ禍で1年開催していなかったリアルの店長会議を行いました。距離を取った短時間の会議でしたが、店長達の顔を見ていると、このコロナ禍も乗り切れそうな気がしてきました。みんなも互いの顔を見て安心したようでしたが、何より私が一番みんなから勇気をもらっていると感じています。

赤坂は居心地が良く、働きやすい街

―――赤坂で働く良さについて教えてください。
川合:赤坂は働きやすい街だと思いますよ。映画館や大型商業施設もなく、オフィスと飲食店が中心の街ですが、不思議とアットホームさや居心地の良さがあると感じます。街を歩いていると「どうも」や「こんにちは」など、お互いに声を掛け合う温かみもある。都心でありながら人と人とが繋がりを保っているある場所だと思います。個人店はもちろんですがチェーン店や大企業もどこか「赤坂」というブランドを大切に思っていて、いい人が集っているのかなと思います。

―――飲食店というお話が出ましたが、川合さんが考える赤坂の飲食店の強みは何でしょうか。また、行きつけの店はありますか。
川合:赤坂は高級店もありますが、必要以上高く見せ品質に合わない価格設定をする店は少ないと思います。また、赤坂の中華は東京一。ビジネス街のため会食で使いやすいから中華料理店が多いのだと思います。よく足を運ぶのは「トゥーランドット臥龍居」。絶対的な美味しさをTPOに合わせた多彩な形で楽しめます。赤坂駅改札からすぐの場所にある「赤坂璃宮 赤坂本店」もランチタイムによく利用します。駅直結にこのクオリティの店があるのは貴重です。また「たけくま」「炎麻堂」「ゴールデンユニコーン」など日常使いの街中華もそれぞれ個性的で飽きませんよ。


「赤坂柿山 総本店」のある赤坂通り(編集部撮影、2019年)

100周年に向け、これまでとは違う新しさを追求する

―――赤坂の街とは今後、どのように関わっていきたいとお考えでしょうか。
川合:柿山の本店をより魅力的な店にして、赤坂で働いている人、住んでいる人、そしてわざわざ他の街からもたくさんのお客さまにお越しいただく。それが赤坂の街への一番の貢献の仕方だと私は考えています。

―――ご自身の店を良くしていくことが一番ということですね。
川合:ええ。それぞれの店がそれぞれの頑張りによりお客さまを呼び、そのお客さまが赤坂内の他の店にも足を運ぶようになる。こういった相乗効果が生まれることが理想だと考えます。街の個性というのは、作るものではなく自然発生的に生まれるもの。赤坂の街の特徴に「雑多」「色々な顔を持っている」を挙げる先輩も多くいらっしゃいます。人工的に作られた画一な顔でなく、赤坂の街から自然発生的に個性が生まれればいいなと思います。


「赤坂柿山 総本店」外観

―――今後、何か挑戦してきたいことはありますか。
川合:柿山に関していえば、贈答ブランドとして培われてきた味や上質感は大切にし、さらに磨いて際立たせていきながら、お客さまの日常生活の中で柿山の美味しさと楽しさを提供できるようにしていきたいです。自分や自分の近くの人の為の日常の米菓提供のためのデイリー商品の拡充、焼き立てやデザート感覚での提供ができるカフェ形態の開発、お客さまの「とっておきのプレゼント」になるギフト商品のブラッシュアップなど、やりたいことはいっぱいあります。

―――時代に合わせた取り組みをしていく、ということですね。
川合:たくさんの人の支えによって50周年を迎えることができましたが、これから先の100周年に向けて、今までとは違う新しさを追求していくと同時に、父が作り上げた創業当時からの思いも大切にしていきたいと思っています。父の「積み重ねてきたものじゃなくて、これから何をするかが大事」という言葉の重みを今、感じています。今の仕事を未来につなげていき、次の周年など節目を迎えるときに「コロナというきっかけがあったから今がある」と振り返れるようにしなければいけないと思っています。

―――本日はありがとうございました!

<プロフィール>
川合寛妥(かわい ひろやす)
1968年生まれ、東京都出身。早稲田大学卒業後、25歳で「赤坂柿山」に入社。30歳で2代目社長に就任し、現在に至る。

 

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