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料亭「赤坂 金龍」が新業態で復活
~「赤坂 金龍」の歩みと赤坂の花柳界・料亭事情~

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「赤坂 金龍」再出発までの歴史

昭和3年に創業した「赤坂 金龍」80年の歴史

 「赤坂 金龍」は1928(昭和3)年に、初代女将の秋葉よしさんが花柳界として発展中の赤坂に創業。当初は現在の田町通りの並びに店舗を構えていた。戦時中、東京大空襲により赤坂は焼け野原となり、同店も戦火を受け倒壊。秋葉よしさんは葉山に避難しており危うく難を逃れたという。戦後、建物を再建し再び営業を始め、1953年(昭和28)年に現在の店舗があるみすじ通りに移転した。

 移転した店舗は敷地面積約100坪の木造の数寄屋建築で、近代の数寄屋建築を確立した吉田五十八さんの弟子である石間桂造が手掛けた。その「無駄をなくす美学」に基づく洗練された造りは内外からも評判で、閉店を余儀なくされた折には惜しむ声も挙がるほどだったという。

 秋葉よしさんは、1982年に84歳になるまで料亭の女将(おかみ)として務め、その後は嫁入りした秋葉冨佐江さんが二代目女将を引継ぎ、三代目となる長女の陽子さんと赤坂の花柳界を親子三代で約80年にわたり見つめ続けてきた。

閉店から新業態店としての再スタートへ

 「赤坂 金龍」が店を閉じたのは2005年のこと。客足が減り、営業を続けることが厳しかったことに加え、建物が老朽化しており閉店を余儀なくされた。港区の条例で新たに木造建築を建てられなく、改築も建物の半分までしか認められないという壁が立ちはだかっていたことに加え、50年以上も前に作られた数寄屋作りの建物を改修できる人がいないという問題もあり、リニューアルまでに4年の歳月を要した。

 赤坂金龍閉店後は、若女将の陽子さんが四谷に別店舗の料亭「りゅう庵」を開店し、料亭としての営業は続けてきたが数寄屋造りの「赤坂 金龍」を取り壊すのはしのびなく、建物を維持しつつ、「赤坂 金龍」をリニューアルする可能性を模索してきた。2005年に起きた耐震偽装問題の影響から耐震補強という名目で改築できることになり、「赤坂 金龍」をリニューアルすることとなった。

 「赤坂 金龍」のリニューアルを手掛けるのは、二代目女将の秋葉冨佐江さんの長男の秋葉佳宣さん。料亭として営業を続けるのは難しいと判断し、新業態店としてリニューアルする。料亭としてではなく、新業態店として再出発する背景を赤坂の花柳界の歴史を通して探る。

赤坂花柳界の歴史1-エンターテインメントだった赤坂の街

明治、創業期の赤坂花柳界 

料亭や芸者などが集まる赤坂の花柳界が発展したのは明治以降のこと。明治時代の初期には、現在の東京ミッドタウンは陸軍第一連隊、現在のTBSは近衛第三連隊の兵舎であり、軍部関連の施設が赤坂のほとんどの地域を占める軍人の町であった。新橋の花柳界が海軍の利用で発展した一方で、赤坂の花柳界はそうした陸軍や政財界人の利用で発展した。

  しかし当初、赤坂の軍人は会合の場所として赤坂の料亭は利用せず、神楽坂の料亭に足を運んでいたという。赤坂の料亭が発展したのは日清戦争後。日清戦争に続く日露戦争の軍需景気を背景に地の利を生かし、明治30年代に1回目の全盛期を迎えた。

スター的存在だった芸者

 当時、芸者は映画スターなどと並び、人気を集める存在で、現在販売されている芸能人のブロマイド写真は、芸者のブロマイドが作られたのが始まりと言われている。

 中でも明治半ばに赤坂の溜池山王の置屋「春本」に養女として迎えられた萬龍は、美人と評判で「酒は正宗、芸者は萬龍」と歌に歌われたほど。当時、雑誌『文芸倶楽部』で行われていた美人コンテスト「全国百美人」の読者投票で1位になるなど、数多くのエピソードを残す。日露戦争時には、出征兵士の慰問用として萬龍の写真を使用した「美人絵葉書」が人気を博し、その後ブロマイド写真も多数作られた。

 しかし赤坂は1923年(大正12)年の関東大震災に加え、1945年(昭和20)年の関東大空襲で焼け野原となり、赤坂の花柳界も一時衰退する。

 戦後、焼け野原となった赤坂の花柳界は一から再建。1936年(昭和11)年に国会議事堂が内幸町(現・霞ヶ関)から永田町に移転した影響で、政治家の需要が急増して、その後本格的に発展していった。

エンターテインメントの街へと変貌した赤坂

 赤坂の花柳界が最盛期を迎えたのは1950年代後半の高度経済成長期。いわゆる岩戸景気であり、企業は「投資が投資を呼ぶ」状態が続き、若年サラリーマンの収入も急増。消費への意欲が刺激され大量消費社会への移行期であった。赤坂の花柳界では戦後、軍人の利用から実業家・政治家・官僚が利用する、いわゆる「官官接待」の場として利用され、そうした好景気を背景に料亭は60店以上が軒を連ね、芸者の数は400人以上に及んだ。

 赤坂の花柳界が最盛期を迎えた1950年代後半になると、赤坂の街には「ニューラテンクォーター」「コパ・カバーナ」などナイトクラブやレストランシアター「ミカド」、ディスコ「MUGEN」などが登場し、華やかな街へと変わっていった。

 赤坂の料亭に訪れる人は料亭で食事を取った後に、芸者や客を連れナイトクラブやディスコへと行くというのが当時のお決まりのコース。ナイトクラブなどとの相乗効果で街の中で利用者が回転するという仕組みができ、赤坂の花柳界は隆盛を極めた。

 「赤坂 金龍」を含め、赤坂で一番規模の大きかった高級料亭「中川」や「川崎」「千代新」などの高級料亭は政財界の人や勝新太郎、石原裕次郎など映画スターでにぎわい、眠らない夜の街であったという。

 料亭やナイトクラブのほか、芸者が必要とする草履や着物を扱う店や料亭に料理を仕入れる飲食店、料亭に必要な障子屋や畳屋などがひしめいており、赤坂の街が一つの花柳界を形成。「最盛期の赤坂の街は、至るところから三味線や長唄の音が聞こえる情緒ある街である一方、夜はナイトクラブで毎晩ジャズ・アーティストによるライブなどのショーが行われるエンターテインメントの街だった」と秋葉佳宣さんは振り返る。

赤坂花柳界の歴史2-料亭のビジネスモデルの破綻

料亭のビジネスモデルの破綻

 しかし、1950年代のピークを境に徐々に閉店する料亭が現れ始める。赤坂の料亭が減少していった最大の理由は、料亭の経営を支えていた「官官接待」の減少による利用者の減少。

 度重なる「官官接待」により国家公務員倫理法などが制定され、「官官接待」の場から官僚が消え、それに伴い政治家の利用も減少。実業家も接待する場を失った。また、最盛期の高度経済成長期とは異なり、接待する側の企業の社長も、創業社長ではなくサラリーマン社長が急増。接待などでの大幅な経費の出費を株主総会で言及されることから、企業側も接待を自粛する動きが出始め、料亭の利用者の減少に拍車をかけた。

 利用者の減少で、大部屋のみで「高単価」「低回転」という料亭のビジネスモデルは行き詰る。「官官接待」などマイナスのイメージに加え、「高級」であり一見さんお断り」という敷居の高さもあり、新規顧客も見込めず、のれんを下ろしていく店が増えていった。

 また、それまで料亭で接待を行うような場合は、企業は社長以下重役など多くの部下を連れ接待に望んでいた。しかし、利用客が減少し、経費を抑えるために出席する人数を絞るようになり、バブル崩壊後には料亭での接待文化を知らない世代が現れるように。IT企業などベンチャー企業の実業家も訪れるようになったが、社長1人で接待している場合が多かったという。「料亭のことを知らない人が増え、お金の使い方が変わった」と秋葉冨佐江さん。

芸者の減少と世代の変化

 減少しているのは料亭だけではない。料亭につきものである芸者の数も減少。最盛期に400人以上いた赤坂の芸者は現在40人ほどに。料亭も芸者の数も最盛期と比べ約10分の1の規模に縮小。通りを歩けば芸者が歩いていた赤坂の街から芸者の姿が消え、見かけることもまれになった。

 芸者と一口に言っても、芸者の中にもさまざまな役割があり、長唄や三味線を弾く芸者を「地方」といい、踊りを舞う芸者を「立方」という。「立方」に比べ地方は1人前になるためにかかる時間は長く、特に三味線を人前で踊りに合わせて弾くのには10年を要する。「立方」を引退して三味線弾きなどの地方として芸者を続ける人もいるが、「立方」の数に比べ、「地方」の数は少ない。

 花柳界が縮小していく中で、芸者も若い人は減り、年配の芸者が赤坂の花柳界を維持してきた。しかし近年、若い芸者が徐々に増えてきており、中には「きれいな着物を着て、大好きな踊りを続けたい」と大学を卒業し芸者を目指している人もいるという。

 明治のころは幼少期に親に身売りされ芸者としての育てられてた芸者がほとんどであったが、時代の変化とともに芸者となる人たちも目的も変化しているようだ。

赤坂花柳界の歴史3-バブルの到来と街の変化

 赤坂の花柳界が本格的に衰退しはじめたのは1970年台後半から。料亭やナイトクラブなど赤坂のシンボルにもなっていた店舗が徐々に閉店。木造建築が建物やナイトクラブなど大型の施設に変わり、貸しビルが乱立しコンクリートジャングルへと姿を変え始める。

 そうした背景の中、敷地面積約500坪と赤坂で最大の料亭「中川」が1982年にのれんを下ろすことになった。数寄屋作りの建物は解体、移築され、跡地には貸しビルが建てられた。赤坂の料亭の多くは場所だけを貸し、料理などは仕出し屋と呼ばれる出前専門の飲食店から仕入れる形で営業しており、料亭の周りにはそうした仕出し屋が集まり街を形成していた。しかし料亭「中川」の閉店後は、仕出し屋も減少するようになり街は一変した。

 バブル期以降は貸しビルのテナントの減少から、乱立した貸ビル業者がテナント確保に必死になり、これまで赤坂の街にはなかった韓国クラブやパチンコ店、カジノバーが出店。「コンクリートジャングルのようになり、さまざまな業種の店舗が出店。それまではエンターテインメントの街であった赤坂の街からカラーが無くなっていった」と秋葉佳宣さん。

 料亭が並んでいたが当時の赤坂は高い建物も少なく平面的な街にであった。赤坂には59カ所も「坂」があり、街の名物にもなっているが、料亭が消えビルが林立してからは、その名物もビルの陰に隠れてしまったという。その後、料亭やナイトクラブなど集客力を無くした街は、都市のドーナツ化減少が進行。オフィス街へと変わってしまい、土曜・日曜などに郊外から訪れる人が減少し、閑散とした街になっていた。

「赤坂  金龍」復活-料亭の新たな可能性

新業態へとリニューアルしていく元高級料亭

 現在、赤坂料亭を束ねる赤坂料亭組合に登録されており、赤坂で料亭として営業を続けているのは、「口悦」「浅田屋」「鶴よし」「つる中」「佐藤」「木の下」のわずか6店。のれんを下ろしてしまった料亭の多くは、貸ビルを建てるほか、数寄屋作りの建物を残し、新業態の店として展開している。

 赤坂の料亭が減少してしまった背景には、利用客の減少のほかにもう一つの理由がある。料亭を経営する女将のほとんどは子どもがなく、引き継ぐ人がいなかったため店を閉じるしかなかったのである。養女を取る店や娘に引き継ぐ店もあったが家族であっても引き継ぐことを拒む人が多く、のれんを下ろす店が増えたという。「引き継ぐ人がいないため、女将が引退後すぐに店を閉じる店もあった」(冨佐江さん)。

 新業態としてリニューアルしている店も、元々料亭を経営していた企業ではなく、他の企業が運営しているのがほとんど。数寄屋作りの建物や料亭の雰囲気を生かしたいという企業に、建物ごと場所貸しを行っているという。現在、「一蔵」などが料亭の建物を利用し和食ダイニング店として展開している。

世界に発信する日本の伝統と料亭文化

 そうした中、「赤坂 金龍」は創業者一家で新業態店にチャレンジする。新業態店は、和食ダイニング店としてオープン。芸者衆や太鼓持ちなどによる伝統芸能のライブを行い、これまで解放されてこなかった料亭の文化や料亭に潜む日本の伝統文化を発信していく飲食店を目指す。

 同店は、数寄屋建築は石間桂造さんが建築を手掛けているほか、ホテルニューオータニの日本庭園を手掛けた造園家の岩城亘太郎さんが庭園を設計し、ふすまなどの表具を吉田五十八さんなど多くの建築家が重用した経師・表具師の向井一太郎さんが手掛けており、日本の伝統工芸の粋が集まった建物。器や食器も、陶芸家の前田正博さんや川松弘美さん、百田輝さん、佐々木文代さんの作品を使用。そうした伝統工芸品の数々と食事を楽しめる店にする。

 2階の大広間として使っていた部屋をライブスペースに改築し、日本伝統芸能のライブを行う。赤坂の芸者衆の踊りや三味線を披露するほか、日本に現在4人しかいないという男芸者の「太鼓持ち」を招き、座敷芸も披露する。以前、茶室として利用していた部屋はリニューアル後も残し、実際にお茶をたて振舞うなど気軽に利用できるようにするという。

 バブル崩壊後、赤坂は近隣の都市開発により、高層ビルが並び外資系のホテルや企業が進出。大使館なども多く、国際色豊かな町に変化。外国人旅行者や短期・長期のビジネス利用で訪れる外国人も多い。しかし、そうした外国人に対し、日本の文化を伝える観光施設が近隣に少ないことから、そうした外国人のニーズに応える店舗として再スタートを切る。外国人でも気軽に利用できるよう店内を改築し、バーカウンターやテーブル席も設ける。

これまでのビジネスモデルからの脱却

 リニューアルに伴い、ビジネスモデルも刷新する。料亭はこれまで、仕出し屋から料理を仕入れ、置屋から芸者を招くという形で運営してきた。仕出し屋や置屋から請求を受けてから、初めてお客さんに代金を請求するため、自然と売掛金でしか経営することができなかった。一見客を断るのも、売掛金での商売であっため、支払いが定かでなく信用のない人では料金を回収するのが困難であったのが理由の一つだ。

 リニューアル後の店では、板前を用意し料金を直接請求できるビジネスモデルにすることで、一見客なども取り込んでいく。「赤坂 金龍」以外の料亭でも、現在ほとんどの料亭が板前を用意するビジネスモデルで経営を行っているという。店内は約100席と席数を増やし、これまでの「高単価」「低回転率」というモデルから脱却し、「回転率」を改善。単価も引き下げる。

 外国人をメーンターゲットに据えていることから、近隣の外資系ホテルなどに営業をかけ、飲食店としてだけでなく、日本の伝統芸能を楽しめる場所として利用してもらう方針。「外国人だけでなく日本の伝統芸能に興味のある日本人の人たちにも利用してもらいたい」と佳宣さん。

クリフトン・カーフに学ぶ日本の伝統

 佳宣さんが「赤坂 金龍」を復活させようと思った理由の一つに版画家のクリフトン・カーフさんとの出会いがある。クリフトン・カーフさんは日本に住んで、日本の美しい風景や対象物を版画で表現していた版画家。カーフさんと縁があった秋葉さんは「日本は素晴らしい文化がたくさんあるのになぜ世の中に発信しないのか。良いものを持っているのにしまっておく手はない」と言われたという。

 そのカーフさんの影響を受け、秋葉さんは「日本の伝統の粋」が集まる数寄屋作りを利用し、日本の伝統文化を発信していく飲食店を始めることを決意した。

 「料亭も、その時代時代のジェネレーションに合った業態に変わっていく必要がある。日本の若い人も欧米の文化に目が向いてしまっているため、そうした若い人たちにも日本の伝統文化を発信し、赤坂の街にカラーを取戻していきたい」(佳宣さん)。

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