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赤坂のあんみつ・寒天店「相模屋」が創業130年 さつまいも問屋からの意外な出発点

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 赤坂で働く人たちの「差し入れ」や「おみやげ」として長く親しまれてきた、あんみつと寒天の店「相模屋」。その始まりはいまから130年前、明治28(1895)年にさかのぼります。戦争や再開発など、時代の荒波の中でも「少量生産」と「手づくり」にこだわり続け、地元に根を張ってきた老舗です。

 店の歩みや寒天づくりのこだわり、そして赤坂という街への思いを、四代目店主・宮治敏明さん(以下、宮治)にお聞きしました。

青いのれんが目印の老舗甘味店

 

さつまいも問屋から始まった

Q:まず、創業当時についてお聞かせください。
宮治:実は、当時は今のような寒天屋ではなく、さつまいもの問屋としてスタートしたそうです。商いを始めたのは、1892(明治25)年頃だと聞いています。

当時は今のように、保健所ではなく警察が衛生に関わる許可を出していた時代で、1895(明治28)年付の営業許可証が残っています。そこで、その年を区切りに「1895(明治28)年創業」としています。

場所はずっと赤坂ですが、最初は今の場所ではなく青山通り(国道246号)沿いのあたりでした。そこから10年もたたないうちに、一ツ木通り側に移ってきたと聞いています。

同店の木製看板

 

Q:最初はさつまいもの問屋だった。
宮治:ええ、そのあとに寒天の商いに移っていきましたが、いつ頃から寒天屋になったかといったはっきりした記録は残っていません。

創業から10年がたった明治30年代後半頃には、今と同じように寒天やあんみつを中心にした商売になっていたようです。

 

Q:屋号は、どこから来ているのでしょうか?
宮治:もともと一族が神奈川の出で、「相模」の土地に縁があったことから「相模屋」と名乗ったようです。きちんとした家系図のような資料は残っていないのですが、父が書き残したメモなどを見ると、そういう経緯だったようですね。

初代は宮治権次郎(みやじ・ごんじろう)といって、三代目も「権次郎」という名を継いでいます。

 

震災と空襲を越えて

Q:関東大震災や戦時中の空襲など、店の歴史の中で「語り継がれている出来事」はありますか?
宮治:関東大震災が起きた1923(大正12)年頃のことも詳しい記録はないのですが、1944(昭和19)年~1945(昭和20)年にかけての第二次大戦の空襲では店が焼け、当時使っていた銅釜は、祖母と父が疎開先へ運び出して守ったと聞かされました。

寒天を煮炊きする店奥にある銅釜

 

寒天一本、原料は天草

Q:現在の主な商品を教えてください。
宮治:今は寒天一本ですね。あんみつ、ところてん、水ようかん。それに、あんみつ用の餡(あん)や蜜、求肥、えんどう豆などのトッピングなどもそろえています。くず餅も扱っていますが、製造は別の場所で行い、特別に作ってもらっています。

水ようかんは「夏のイメージ」があるかもしれませんが、当店は季節でガラッとラインナップを変えることはなく、基本的には一年中、同じものを作り続けています。

寒天、こし餡、豆などを分けて詰めた定番商品

 

Q:寒天づくりで大切にしていることは何ですか?
宮治:いちばん大事なのは、寒天の原料になる「天草」です。原料が良くないと製品も良くならないので、とにかく天草は吟味して、良いものだけを選んでいます。大量生産はせず、家族と少人数で、目の届く範囲の少量生産。製造も販売も、この建物の中で完結しています。

寒天は伊豆七島・西伊豆産の天然天草を使い、季節や気温に応じて数種類をブレンドしています。また、保存料などの添加物は使わず、作り置きはしないため、作りたての味を楽しめます。あんみつの具材も、赤えんどう豆やこし餡、黒蜜まで手作りです。

品質を見極めて仕入れ、寒天づくりに使う原料の天草

 

花柳界、放送局、そして今

Q:お客さんの顔ぶれも、時代とともに変わってきたのではないでしょうか。
宮治:戦後からしばらくは、今よりも花柳界の人たちが多かったですね。芸者さんが手土産に買っていったり、近くの料亭さんが政治家の方への土産に使ってくださったり。国会議事堂も近いですからね。

 

Q:赤坂サカス周辺には、かつてTBS会館がありました。当時の人の流れはどうでしたか?
宮治:ええ、その頃は放送局の出入り口も近くて、芸能人もよく来られていました。国民的映画シリーズで知られる主演俳優も来店したことがあります。店で作業していたら、背中から「お兄さん、お兄さん」って声をかけられて、まさに映画の中のセリフ通りでね、印象に残っています。

今は、赤坂もすっかりビジネス街と飲食街の顔が強くなって、近隣の会社員の方や、周辺の飲食店さんが主なお客さまですね。昔のように、地元の人が日常の買い物に来るような小売店は、一ツ木通りでも数軒しか残っていないですね……。

 

Q:赤坂という街そのものも、大きく姿を変えてきましたよね。
宮治:私が子どもの頃の赤坂は、黒板塀が並んでいて、三味線の音が聞こえて、芸者さんが人力車で通るような、しっとりした花街でした。夜も、料亭に大人が車で来て、また静かに帰っていく、そんな街でしたね。

今は再開発も進んで、会社のビルが増え、飲食店もチェーンが多くなって、夜の雰囲気もずいぶん変わりました。にぎわいが増えた分、昔のような「しっとりした花街」とは違う表情の街になったと感じますね。

赤坂には、どこか落ち着いた空気が似合うと思っています。できればこれからも、にぎわいの中に“大人の雰囲気”が感じられる街であってほしいですね。

 

町会と祭りを支える

Q:町会やお祭りとの関わりも長いと伺いました。
宮治:ここは「新町三丁目町会」に入っていて、私の家は代々、町会活動に関わってきました。父は町会長も務めていて、その時期に新町三丁目のみこしを新しくしようという話が出て、改修の中心を担ったこともあります。

みこしそのものは今も立派なんですが、担ぎ手が少なくなっていて、町内だけではとても足りません。同好会の方々に協力してもらって、なんとか続けている状態です。地元に住む人や、家業を継ぐ人が減っていることは、商売だけでなく、祭りの面でも大きな変化ですね。

あんみつやところてん、水ようかんなどが並ぶ店頭ショーケース

 

130年続いた理由

Q:ここまで長く続けてこられた理由は何だと思いますか?
宮治:当店は、何周年だからといって特別なことをする店ではないんです。100周年のときもそうでしたが、キャンペーンのようなことはやっていません。正直、節目を強く意識しているわけでもなくて(笑)。

「売り上げを伸ばすために何か仕掛けをする」というより、いつも通りのことを、変わらず続ける。それがいちばん大事だと思っています。良い原料を選んで、手を抜かずに作って、必要としてくれる人にきちんと届ける。派手なことはできませんが、その積み重ねでここまで来られたのかな、と感じています。

店内で手作りしているあんみつ用の餡(あん)

 

Q:最後に、これから先の「相模屋」について、どのように考えていらっしゃいますか。
宮治:いちばんの問題は、原料の天草ですね。温暖化の影響で海水温が上がって、良い草がだんだん採れなくなってきています。材料がなければ、どんなに続けたくても続けられません。

家族も手伝ってくれていて、今のところは「草があるうち」「自分たちが元気なうち」は、これまで通りやっていこうと考えています。その先のことは、材料の状況や時代の流れ次第。思った通りにはいかないことも多いですからね。

それでも、できる限りは、良い原料で、良い寒天を、目の届く範囲でていねいに作り続けたいと思っています。

宮治社長、ありがとうございました!

 

<店舗情報>
「赤坂 相模屋」
住所:港区赤坂3-14-8
電話番号:03-3583-6298
営業時間:11時~17時
定休日:日曜日・祝日
ホームページ:https://www.akasaka-sagamiya.co.jp

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